三宝教団 管長


  坐禅を続けておられる方々の恐らく大部分の方が、何らかのお仕事をされておられるのだろうと思う。会社勤めの方もおられれば、医療や介護に携っておられる方、会計士や弁護士の方、学校等で教鞭をとっておられる方、あるいは美術や音楽等の芸術関係をお仕事とされておられる方等々。住居の管理や家事も仕事とすれば、全ての方が何らかの仕事をしていることになる。
 そのような仕事と坐禅とはどういう関係にあるのか。私自身は禅の活動を行うと同時に、事業会社、医療機関、検査機関等の経営という仕事を長年にわたり続けている。多くの人から、禅の活動とそのような仕事をどのように両立させているのか、という質問を受ける。
 私にとって禅と仕事の関係は極めて簡単である。どう両立させるかというような関係ではない。坐禅をしたほうが仕事がうまくいく、そういう関係なのだ。私の両親はともに坐禅をしながら毎日働いていた。父親は経営者として、母親は医師として。母親がある時、「ほかの人達は坐禅をしないでよく毎日働けるわね。不思議で仕方がないわ」と言ったのを思い出す。私も同感だ。
 しかし、仕事がうまくいくから坐るというだけでは、禅は仕事をするための手段に過ぎないのかという疑問が生じるかもしれない。
 その心配はいらない。仮に仕事がうまくいくからという理由で坐禅を始めても、一生懸命坐禅を続けると禅の本質が次第に明らかになってくるのだ。禅の修行が日常のあらゆる仕事にプラスの効果をもたらすことは間違いない。しかし坐禅はよい仕事をするための手段にその本質があるわけではない。一生懸命に坐禅を続けると、仕事をしている自分と仕事との境界が次第に薄らいでくるのだ。そしてある時仕事と自分との境界がなかったことに気がつく。
 「仕事をする」、それ以外に自分というものが存在しないという事実に気がつくのだ。禅というのはこの事実につけた呼称にすぎない。坐禅とは、この事実になりきるための行為であり、この事実の具現である。ここに坐禅の本質がある。
 私は提唱等、種々の場で、坐禅とは「本」が「本」になること、「机」が「机」になることだ、と申し上げてきた。「坐禅とは、仕事以外に自分というものが存在しない、という事実になりきることだ」とここで申し上げていることと、全く同じことを別の表現で言っているに過ぎない。
 坐禅とは本当の自分が本当の自分になりきる行為だ。仕事をする、そのことになりきる行為だ。坐禅をすれば仕事がうまくいくのは至極当然だということになる。


三宝教団機関誌 暁鐘361号(2013 7・8月号) 巻頭言より掲載




横尾龍彦画

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