デカルトの名を知らない人はまずいないと思う。
ルネ・デカルト(1596〜1650)はフランスの生んだ偉大な哲学者であり数学者である。イタリアの生んだこれも偉大な物理学者ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)と略同時代を生きた。
デカルトが1637年公刊した「方法序説」の中で述べた「我思う、ゆえに我あり」という言葉は自己の存在を疑うことなき実在として認識したものとして近代哲学史上恐らくもっとも有名且つ重要な命題であろう。デカルトが近代哲学の父といわれるである。
注)「我思う、ゆえに我あり」の原文はフランス語の「Je pence, donc je suis」。
デカルトの友人の神父によるラテン語訳が有名な「cogito ergo sum」 (コギト・エルゴ・スム)
「方法序説」で詳述されるデカルトの思考方法論を端的に述べれば「少しでも疑わしければ、それを完全に排除する」という思考プロセスであるといえる。通常正しいと認識されている事象も若干でも疑う余地があれば完全に排除していく。このプロセスでは1+1=2というような自明の理に見える認識すらも排除される。
そしてどうしても排除できないものとして最後に残ったものが「我思う、ゆえに我あり」という認識なのだ、とデカルトは主張する。これは真実か、排除すべきか、と確かに自分は考えている、考えている自分がいる、この事実だけはどうしても排除できない、という主張である。
果たしてデカルトは正しいのか。
デカルトは間違っている。私はそう云わざるをえない。人類の生んだ最高の知性が徹底的に考え抜き万人が認めるその結果を否定するだけの知性と思考力をお前は持ち合わせているのか、と問われるかもしれない。当然ながらデカルトの知性も思考力も私は持ち合わせていない。しかしこれは知性や思考力の問題ではないのだ。体験的に発見された事実の世界の話なのだ。
いくつかの点でデカルトは間違っている。まず「我思う、ゆえに我あり」という命題自体、既に「トートロジイ(Tautology)」的矛盾を孕む。「我」の存在を認識するプロセスを示す筈の命題が既に初めから「我思う」と「我」の存在を前提としている、という矛盾である。
この矛盾はやや言葉尻を捉えた指摘であり、一見本質論ではないようにも見える。しかし、じつは本質と密接に結びついている。
「これは正しいのか、これは間違っているのか」と思考する、このことは否定できない。「思う」、この事実は排除できない。ここまではその通りなのだ。ここまではデカルトは正しい。しかしデカルトは次のステップで「ゆえに我あり」と「我」の存在を認識する。ここにデカルトの陥った誤謬がある。一体どこからデカルトは「我」などというものを持ち込んできたのか。デカルトは一体どこで「我」などというものを見つけたのか。デカルトが「我思う」と切り出したときに既に彼はこの誤謬に陥っていたと云わざるをえない。
「思う」と云う事実は否定できない。しかし「思う」という事実以外何も存在していないのだ。「我」などというものはどこをどう捜しても存在しないのだ。いかなる知性といえども体験を通さないかぎりこの世界は発見できない。
「我思う、ゆえに我あり」は「思う、されど我なし」と修正されなければならない。
趙州和尚が釈尊の発見した世界とはどんなものか(如何なるか是れ祖師西来意)と聞かれて、「庭前の柏樹子」と答えた。無門関に出てくる有名な公案です。「思う、されど我なし」の世界を趙州は呈しておられる。
庭の柏の木、あの木以外に乾坤大地何一つ存在していない、ましてやそれをみている「趙州」などどこをどう捜しても見当たらない、という世界です。
「庭前の柏樹子、されど我なし」
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